MPI Report 004

公の精神と問題解決のプロトコル

-話し合いの場と判断しないことの大切さ-

報告者

七沢智樹


報告日

2019/1/15


概要

自己超越に至る前提として、「公の精神」があります。公とは、すべての階層の意志を尊重した状態と定義されます。それは、まさに「自己超越」の精神状態を「理想的、一時的にではなく、日常的に実践的に行っている人」の精神状態と言えます。

公の精神について、進化プロセスと問題解決を絡めてまとめました。

今後、公の精神と情緒や心理学的なテーマについてのレポートを、継続して執筆予定です。



目次

1. 問題解決と公の精神

2. 生存欲求と進化プロセス

2.1. 我が強い者が勝つ原理

2.2. 残酷な進化のメカニズム

2.3. 利己的遺伝子という視点

2.4. 「自己生存の確保」がされた社会

2.5. 淘汰のフェーズが終わった人間の生きる階層

2.6. 利己的遺伝子から公的遺伝子へ

3. 公の精神と問題解決のプロトコル

3.1. 公の場は「話し合える場=結びを起こす場」を前提とする

3.2. 話し合いが可能な場について

3.3. どんな主張も必ず相手の立場に立てば納得できる

3.4. まず、判断をしない(漂わせる)ということ

3.5. 客観視した先にある「公」の階層への気付きが必要

3.6. 自ずと問題が解決する状態

1. 問題解決と公の精神


公の精神とは、すべての階層の意志を阻害しない(尊重する)という精神です。そのため、二項対立を生みません。

話し合いにおいて、AとBが対立している場合、その階層に入り、お互いの意志を尊重した上で、その上の階層からの解決を図ります。

このためには、長い話し合いを行ったり、場を変えたりといったさまざまな工夫が必要でしょう。ただ、人はひとつだけの階層ではなく、複数の視点や階層を持っていますので、時間をかければ自ずとすべての問題は解決していくと考えられます。実際に、縄文時代や近代まで地方の村々でもそのように解決されていました。

このような「公の精神」が、現代の「問題解決」のために前提として必要であると考えています。問題解決に際して、意志を尊重した上で問題を解決するというプロトコルが公の機能そのものである、ということになります。

この公と問題解決のプロトコルについて、見ていきたいと思います。

公とは、すべての階層の意志を尊重した状態

2. 生存欲求と進化プロセス

-進化プロセスを見ると誰かの意志を阻害することは、致し方ない!?-

2.1. 我が強い者が勝つ原理


まず、公を志す場合、相手の意志を第一に尊重するがために、自分の意志と他者の意志の対立を避けて、自身の意志を出さない、ということがおきます。

たとえば、食卓で、今日の食事が全員には十分に行き渡らない量しかない、という場合。みんながお腹がすいているので、お互いに譲ることで、相手の「食べたい」という意志が尊重されます。

このときに、我が強いものがすべてを奪ってしまう原理が働いて、「どうぞどうぞ」と言いながらどんどん相手に食べさせた結果、自分は食べるものがなくなって、餓死してしまうとします。その結果、我の強い人だけが生き残ることになります。

公の精神を理解するにあたって、この「我欲が強いものが公の精神を持った崇高な人々を駆逐する構図」について、最低限の理解が必要です。について、進化プロセスを通して説明します。


2.2. 残酷な進化のメカニズム


さて、この「我が強い者」が「公の精神を持った我の弱い者」を駆逐するという構図。これは一見、倫理的に許されない現象です。

動物たちの世界は、このような構図のうえに成り立っています。進化の過程で動物から別れたばかりである人間も、弱肉強食のプログラムにまだまだ支配されています。

たとえば、アメリカ大陸と日本を比べると、そこに生息する生き物たちの生命力には格段の差があります。外来生物であるザリガニやウシガエル、カダヤシ、ブラックバスなどは、日本の従来の水生生物をことごとく駆逐してしまっているわけですが、それは生物の生息数が多い大陸の過酷な弱肉強食の世界で生き残った生物なので、最初から圧倒的な強さを持っています。日本の固有種にとっては、たまったものではありません。

日本の固有種の保護ということが言われていますが、アメリカ大陸においても、淘汰の中で、絶滅していった生き物が多く存在していた中、最後まで生き残ったのがアメリカザリガニやウシガエルであったわけであり、これらの生き物は進化の必然として存在しているのです。

食卓ですべてを食い尽くした我の強い人を彷彿とさせる前述の例において、彼らの強さは、何を教えてくれているのでしょうか?

そもそも、人間(ホモ・サピエンス)も、ネアンデルタール人やホモ・エレクトスなどの旧人類を淘汰して生き残った種です。厳しい自然環境の中で生存を確保するためには、「生命体」としての「体の階層」において、圧倒的な強さが必要なのです。

そのような強さがなければ、人間は、とっくの昔に絶滅していたのです。その点からすると、アメリカザリガニを必ずしも悪く言うことはできないでしょう。


2.3. 利己的遺伝子という視点


このように、生命体としての強さによって生き残り、進化してきた種の過程を観察するとき、「利己的な個体ほど生存しやすく、子孫を残すチャンスが多い」と言い換えることができるでしょう。しかし実際には、自分を犠牲にして他の個体を生存させようとする「利他的行動」が、多くの動物において見られます。

この現象を説明した学説として、行動生物学者であるリチャード・ドーキンスによって提唱された「利己的遺伝子」という説があります。

「利己的遺伝子」の説によれば、多くの動物の行動に見られる利他的行動の内実は、自分と共通の遺伝子の一部を持つ子孫を生存させるという目的のもと、(自分が犠牲になっても)自分の遺伝子をより多く残したいという「利己的な遺伝子」によるふるまいであり、生物はそのために利用される道具にすぎないと考えることで、動物の利他的行動を説明しました。

このように、遺伝子的な視点からも進化の過程を説明することができますが、いずれにしても、これまで種を存続させる原動力の根底にあったものは、自らを生かそう、残そうとする「利己的」なものであったといえるでしょう。


2.4. 「自己生存の確保」がされた社会


現在、人は基本的な自己の生存の確保を達成しました。したがって、食料がどこにもないから飢え死にしてしまうという状況は、激減していっています。

「おしゃれな服を着たい」「おいしいものを食べたい」という意志や欲求ではなく、最低限の健康を維持して生きていくための、自己生存の確保が基本的にはできているのが現代社会です。(もちろん貧困の問題は完全に解決してはいません。)

これを実現したのは資本主義のパワーですが、この資本主義自体が弱肉強食の考え方でできています。資本主義にも見られる「我が強い人間(存在)がそうでない人間(存在)を駆逐していく」というメカニズムは、地球の歴史において、生命全体が生き残り、発展していくためには必要であったといえます。

もしかしたら、その時代においてはそういった我の強い人が生き残って、その人の中で、(後に生まれると期待される)感謝の気持ちが次の世代に繋がるのかもしれませんし、それがその時代における我の強い種の最適な役割なのかもしれません。


2.5. 淘汰のフェーズが終わった人間の生きる階層


けれども、弱肉強食による弱き種の淘汰というフェーズは終わっており、人間という種としての生存の確保がなされている今、その次の階層である「社会性」によって、より最適に「知恵を使って」生存の確保を行おうとしています。

それを実現するための第四階層的な倫理観や哲学が育まれてきています。それが、公の精神の始まりです。「獣から人への進化」を遂げたとも言えます。

これから、さらに第五階層の「おおやけ」に人類の意識を導くには、この社会において、今まで実現できなかった「すべての階層の意志を阻害しない」という「おおやけ」の精神によって成り立つ社会を意図する必要があります。


2.6 利己的遺伝子から公的遺伝子へ


前述のドーキンスによる「利己的遺伝子」の観点からも、この「社会性」による最適な生存の確保というものを新たなフェーズとしてとらえることができます。

個体が、自己に似た個体を子として生むことを目的としたダーウィン説。対する「利己的遺伝子」では、遺伝子が自己に似た遺伝子を増やすことを目的としていました。

自然淘汰→自己の遺伝子保存のための利他的行動という生物の進化概念の歴史は、自己のみならず、その個体や遺伝子の集団としての「社会」を生かそう(=持続可能社会を実現しよう)とする、「公的遺伝子」ともいえる存在の可能性を視野に入れる必要のあるフェーズに入った、ともいえるでしょう。

「おおやけ」とは自己を含む概念でもあることから、これに準ずる「公的遺伝子」とは、前述の「利己的遺伝子」の発展形として、また同時に他者の意志を阻害しない視座を有する点が「利己的」とは次元を異にしているため、いうなれば、これまで進化を支えてきた「利己的」なものを超え、真の利他的行動を発動する時代に突入したととらえることができます。

このような真の利他的行動の源泉であり、持続可能社会実現の要となる「おおやけ」という公的遺伝子を目覚めさせるうえで、私たちには何が必要なのでしょうか。

3. 公の精神と問題解決のプロトコル

-話し合いの場と判断をしないことの大切さ-


3.1. 公の場は「話し合える場=結びを起こす場」を前提とする


「おおやけ」の視点というのは、「すべての階層においてその意志を尊重する」ことなので、現在の資本主義の発展というのは尊重されなければなりませんし、それに反対する意志というものも尊重されなければなりません。

つまり、「話し合いの場」が、「おおやけ」の実現のためには必要になってきます。「すべての人が同じ屋根の下に存在する」ということが、「おおやけ」の大前提です。

そのためには、例えば、資本主義に賛成・反対する人が同じテーブルにつけることが必要です。そのときに、「おおやけ」の精神を持つその人は、資本主義に賛成でも反対でもないか、もしくは、自身の意志を表明しないはずです。そうでなければ、両者を「むすぶ場」を創造することはできません。

その「場」をつくるということを、常に意識する必要があります。

このことから見えてくるのは、「おおやけ」の精神とは「話し合える場」を前提としている、ということです。


3.2. 話し合いが可能な場について


話し合いが可能な場とは、すべての人の意志が尊重される場のことで、その間で「むすび」をする人間はどちらの立場でもなく、すべての人に意見を出させて、それを聞きます。その場においては、意見を話す人間に対して、聞く人間は自らの意見を取り払ってすべてを聞かなければなりません。すべてを聞いた上で、自分の意見を言う必要がありますし、聞いたことでそれに納得したならば、それはそれでいいでしょう。

とにかく「聞く」、ということです。

そのときに、「無理に納得しない」ということが大切です。また、「すべての階層において納得できるかどうか」ということが非常に重要になってきまので、最初は根気強さが必要です。そうして、その話し合いの場に「情報圧」をかけることを覚えていきます。


3.3. どんな主張も必ず相手の立場に立てば納得できる


相手が意志を発して(話をして)、聞いた側が納得する。受信と発信でいえば、聞いて納得することは受信にあたります。

では、どんな相手の意志を聞いて、そのすべてに納得することができるのでしょうか?

結論としては、すべての意志(意見)は納得することができます。なぜなら、その人がその意志を言えるのは、そもそもそうした場が存在するからであって、相手の場のことを考え、理解してあげれば、「その意志(意見が)存在して当然な場」の上にその意志が存在しているからです。

「だれかを陥れたい」という意志が存在するとして、その人の中ではそれが当然であるという場が存在していますから、その場について納得してあげる必要があります。「暴力はいけません」と言うのは、単なる意見の押し付けになってしまいます。「だれかに対して暴力をふるいたい」と思っているその人の背景を、まず理解する必要があるということです。

それが相手の意志を聞いて、納得するという受信の前提ですが、相手がそうした意志を発しているその背景さえ理解してしまえば、その意志も理解されます。

よって、「おおやけ」の場において相手の意見を聞く場合には、相手の背景を理解する必要があります。


3.4. まず、判断をしない(漂わせる)ということ


そしてさらに、相手の意見に対して、「それは間違っている」「理解できない」などといった判断をしないで、漂わせておくことです。「相手の意見に納得できない」と思った時にも、その相手に対して、「なぜそう思うのか?」と、その背景(コンテクスト)について質問をし、確認を行います。

AさんがBさんと対立しているとき、AさんはBさんの意見を聞き、Bさんのコンテクストを聞きます。するとBさんの背景が出てきますが、このとき、Bさんの背景と相容れることができない場合がほとんどでしょう。

AさんがCさんに対して暴力を振るいたい、BさんはCさんを守りたいというときに、AさんにとってはCさんを守られると困ることになります。そこで、お互いに自身の背景について話し合いますが、長年溜まった思い、怒りなどがあってどうしても理解しあえないといったとき、話し合いは続行不可能になります。

一般的には裁判が行われ、お互いの言い分を聞いた後に判決が下されるわけですが、この場合、法律という「意志」が登場します。法律によって、「これは許す、これは許されない」などと取り締まられたり、裁判での結論が出されますが、その方法は裁判所の意志になるので、それに納得できないからまた裁判を起こす、という悪循環が起きます。

しかし、もしお互いに相手の意志を尊重した上で意見を言い、それを聞いてお互いが共有する場ができ、お互いに納得すれば、問題は解決します。


3.5. 客観視した先にある「公」の階層への気付きが必要


では、お互いの背景を共有するにはどうしたらいいのでしょうか?

背景にも階層があり、さまざまな背景があります。その背景をお互いに共有するというよりも、その背景にあるものに対しての気づきを得ることによってその背景から生まれた感情についての客観視が起きて、理解が起き、その意志が本来の意志ではなかったことに気づく、ということが起きます。

そのための前提として、まず生存が確保されていること。さらに、人間というのは五階層の「おおやけ」の意志まで達する存在である、という人間としての存在の定義が前提にあります。


3.6. 自ずと問題が解決する状態


このように理解していくと、話し合うなかで(あるいは話し合いに依らなくとも)、自分の意志というものが「感情が絡みついたもので、相手の意志を阻害している」ことにふと気づきます。そのことによって、お互いにその意志を発するとことに「意味がない」と気づくこともありますが、その次の段階として、むしろ、その意志を発していた背景を理解することで、その意志自体がぱっと消える、ということがあります。

背景を理解することで気づきが起きて、その問題を発生させていた意志が、ぱっとなくなるのです。